お前の内を掘れ。掘り続ければ、そこには常にほとばしり出ることができる善の泉がある
(『自省録』7・59)
・
・
「善い人」というとどんな人を
思い浮かべますか?
モラルがある、徳が高い、やさしい、
寛容、品がいい、天真爛漫、、、、
そんなイメージが私にはあります。
娘の国語辞典で「善人」を調べてみました。
【善人】
心や行いが正しい人。良い人。
光村『小学新国語辞典』より
と書かれていました。
なるほどね。
・
・
『自省録』には、
「善」がよく出てきます。
生きることのできるところでは、善く生きることができる。ところで、宮廷でも生きることができる。したがって、宮廷でも善く生きることができる。(『自省録』5・16)
もはや善い人とはいかなるものかを議論するのはきっぱりやめ、実際にそのような人であること。(『自省録』10・16)
マルクス・アウレリウスは
ローマ時代の皇帝で賢帝と言われています。
人間的にも道徳的にも素晴らしい人だったのでしょう。
本人もそうありたいと思っていたのだろうな。
原書だけを読んでいたら、
私はおそらくそのように解釈したことと思います。
ところが、、、
「マルクス・アウレリウス『自省録』
-他者との共生は可能か」
著者・岸見一郎による解説を読んでみると、
「善く生きる」とは、幸福に生きるということです。後にもう少し詳しく見ますが、ギリシア語では「善く」を名詞化した「善」には道徳的な意味はなく、自分のためになるという意味です。
と書いてあります。
なんとっ!!!
「善く生きる」とは、幸福に生きるということ。
ギリシア語では「善く」を名詞化した「善」には道徳的な意味はない。
自分のためになるという意味。
私、知りませんでしたよ。
「善」には道徳的な意味はない
善く生きるって、幸せに生きるっていうことだったんですね。
し・か・も・
自分のためになる!
善く生きるって、
他人のためになることをして、
自分も他人も幸せになるんだと思っていました。
なんなら、
あの人が幸せになってくれるなら、
私は構わない
私を踏み台にして、幸せになってください
みたいな、
自分の幸せを差し出すイメージまでがありました。
(自分はできないけど)
でも、
自分の幸せは放棄しない。そういう選択肢がそもそもない。
「人は誰しも幸せを求めている」というのが、
古代ギリシア以来の哲学の大前提なんだそうです。
自分の心の動きに絶えず注意を向けない人が
不幸であることは必然である。(『自省録』2・8)
自分が幸せなることをした結果、
他人も幸せになるのはある。
だけど、
前提に自分の幸せが必ずある。