2023-09-04

お前の内を掘れ。掘り続ければ、そこには常にほとばしり出ることができる善の泉がある

(『自省録』7・59)




「善い人」というとどんな人を

思い浮かべますか?


モラルがある、徳が高い、やさしい、

寛容、品がいい、天真爛漫、、、、


そんなイメージが私にはあります。

娘の国語辞典で「善人」を調べてみました。


【善人】

心や行いが正しい人。良い人。

光村『小学新国語辞典』より


と書かれていました。

なるほどね。






『自省録』には、

「善」がよく出てきます。


生きることのできるところでは、善く生きることができる。ところで、宮廷でも生きることができる。したがって、宮廷でも善く生きることができる。(『自省録』5・16)


もはや善い人とはいかなるものかを議論するのはきっぱりやめ、実際にそのような人であること。(『自省録』10・16)



マルクス・アウレリウスは

ローマ時代の皇帝で賢帝と言われています。

人間的にも道徳的にも素晴らしい人だったのでしょう。

本人もそうありたいと思っていたのだろうな。


原書だけを読んでいたら、

私はおそらくそのように解釈したことと思います。



ところが、、、



マルクス・アウレリウス『自省録』

-他者との共生は可能か


著者・岸見一郎による解説を読んでみると、


「善く生きる」とは、幸福に生きるということです。後にもう少し詳しく見ますが、ギリシア語では「善く」を名詞化した「善」には道徳的な意味はなく、自分のためになるという意味です。



と書いてあります。



なんとっ!!!


「善く生きる」とは、幸福に生きるということ。

ギリシア語では「善く」を名詞化した「善」には道徳的な意味はない。

自分のためになるという意味。



私、知りませんでしたよ。


「善」には道徳的な意味はない



善く生きるって、幸せに生きるっていうことだったんですね。


し・か・も・


自分のためになる



善く生きるって、

他人のためになることをして、

自分も他人も幸せになるんだと思っていました。


なんなら、


あの人が幸せになってくれるなら、

私は構わない

私を踏み台にして、幸せになってください


みたいな、

自分の幸せを差し出すイメージまでがありました。

(自分はできないけど)



でも、



自分の幸せは放棄しない。そういう選択肢がそもそもない。

「人は誰しも幸せを求めている」というのが、

古代ギリシア以来の哲学の大前提なんだそうです。



自分の心の動きに絶えず注意を向けない人が

不幸であることは必然である。(『自省録』2・8)


自分が幸せなることをした結果、

他人も幸せになるのはある。

だけど、

前提に自分の幸せが必ずある。






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